川越の五ツ星お米マイスターのいる米屋 小江戸市場カネヒロの日記

川越 五ツ星お米マイスターのいる米屋 小江戸市場カネヒロ

川越は凄い強風が吹いています。

火の元ご注意お願いいたします。

この風だと火事になれば大変なことになります。

くれぐれもご注意お願いいたします。


町の四割を焼いた川越の大火
 中心街をひとなめ
 冬のなごりをとどめた西北の風が激しく吹き抜ける明治二十六年(1893年)三月十七日夜。午後八時十五分、一瞬、風がとまったかにみえたとき、けたたましく半鐘がなった。「南町の養寿院の門前が火事だぞ!」「風が強い。気をつけろ」人々の騒ぐ間をぬって、町の消防夫は総出で走った。しかし、連日の晴天つづきで、各家の屋根板はカラカラ。風に乗って、火の勢いは落葉を焼くように広がった。南町養寿院門前の北横町、皆川某方から出た火は、本町、多賀町をなめ尽くして下松江町、連雀町へ。さらに志義町、鉄砲町、猪鼻町など計十七町を全焼、小仙波村や喜多町にまで飛び火した。
 アッという間に、火は土蔵と土蔵の間をぬって燃え広がった。焼け落ちた戸数は実に千三百二戸。同年一月の調査で川越町の戸数は三千三百十五だったから、四割近くが焼失したわけだ。
 しかも、そのほとんどが町の中心部。寺三つと銀行、電話局も焼けた。焼死者や負傷者は幸いになかったが、火の回りが早かったため、家財道具を持ち出す暇さえなかった。一晩で全財産を失った人々は道路にうずくまった。被災者は学校や寺院など十一ヵ所に設けられた救助所に集まり、救助米を受け取って飢えをしのいだ。
 川越の大火はこれが始めてではない。明治二十一年三月二十二日にも、高沢町で百二十戸がやけた。この日午後三時二十分ごろ、同町の糸商〝丸松〟松井治兵衛方から出た火は、南東の風にあおられて東西に飛び火。三時間も燃え続けてようやく鎮火した。町の消防力といっても手押しポンプがせいぜい。ちょっとした火事でも手を焼いた。明治七年には越ヶ谷でも三百九十四戸が全焼、大正二年(1913)年に埼玉師範が焼けるなど、県内各地で大火が断えなかった。この二つの大火で川越町民は火事に対して深い反省を呼びさまされた。当時の川越は有名な商業の中心地。裏に土蔵を三つも四つも構えているところは多かったが、表通りの店はかわらぶきか、杉皮ぶきの板屋根が普通だったから燃えるのも早かった。
 見直された蔵造り
 ところが二つの大火でびくともしなかった店がいくつかあった。土蔵を店舗にして、重いむねがわらをのせ、厚い壁で塗りあげたいわゆる蔵造り(くらづくり)の店である。南町の西村半右衛門が経営する近江屋商店もそのひとつ。江戸時代〝天保のキキン〟のとき、失業対策事業としてつくられたこの店蔵は、壁の厚さ二十センチ、土戸の厚さ六センチというがん丈なものだった。二十六年の大火のとき、この店蔵を借りてかすり問屋〝丹文〟を経営していた小川文七氏の娘、寺田けいさんは当時十七才。その思い出をこう語っている。
 「裏にあった水そうの中へむしろをつけて水を含ませ、火の粉を防いだ。店蔵を外から濡らし、戸の間には、みそ蔵から十八本のみそを出してぬめりに使った。だから、大火でも柱が一本こげただけ。土戸を早く開けると、熱気で内部から燃え出すというので、壁が冷えるまで三日間も待った」
 こうして残った店は、このほか山吉(現在の丸木百貨店)、近藤(岸薬局)、利根川筆吉商店(埼玉商事)など。川越商人は防火建築として店蔵が優秀なことを、はっきり目撃した。
 商人にとっては信用が第一。南町、鍛治町の目抜き通りでは、東京の問屋の蔵造りを手本に、東京から職人を呼んで、新しい建築が始まった。
 今日川越にある蔵造りの店は、ほとんどが大火後三年ほどの間に建てられたものだ。
 大火の二日後、銀林県知事が視察、百円を救助費の中へ寄付、県の役人もそれぞれ月給の二十分の一を贈ることにした。東京では県出身の実業家渋沢栄一、代議士高田早苗らが義援金を募集、現金五千六百九円十六銭四厘のほか、米、しょうゆなどが集まった。